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ハチドリのひとしずく#4_当たり前を問い直す 少しずつ、できることから

こんにちは。
関西創価中学校教頭の上原桂です。
朝、鳥のさえずりを聞くたびに、交野の自然の豊かさを感じます。

さて、教員を目指す人のほとんどは、学校という「システム」に適応してきた人間なのかもしれないと考えることがありました。わたしも学校という場所が大好きで、「無遅刻・無欠席・無早退」を目指すような中高時代を過ごしました。でも、そんな学校大好きなわたしでも、「あれっ?」「むむ!?」と思うことがなかったわけではありません。


◆学校は、不自由で、理不尽が当たり前?

わたしが教育を受けていた「昭和」の頃、学校は「不自由で、理不尽が当たり前」「学校は社会に出たときのために、理不尽さに耐える練習をするところ」という一面があったように思います。少なくとも、わたしが子ども時代を過ごした大阪のとある小学校ではそのような空気が流れていました。小学生の頃、忘れものをしたら先生から叩かれたこともありましたし、給食が食べ終わらないと、給食後の掃除時間に、みんなが掃除している教室のすみっこで食べ続けないといけませんでした。

そんな経験をしてきたにもかかわらず(いや、そんな経験をしてきたからか)、教員になってからの自分が、生徒たちに「ずいぶん理不尽なことを言ってきたな」「型にはめて、窮屈な思いをさせてしまってな」と思うことが山ほどあり、申し訳なさでいっぱいになります。

学校は「集団生活の場」だから、「みんな一緒に」「同じように」「きちんと」「迷惑をかけないように」、そんな言葉に教員であるわたし自身が縛られてしまい、多様な個性をもつ生徒たちを「型」にはめていたように思います。(そんなわたしが変わるきっかけは、『みんなの学校』という映画との出会いですが、そのお話はまた…)

昭和、平成、令和、と少しずつ「戦後教育の弊害」が見直され、「理不尽に慣れるのではなく、理不尽だと感じた問題を解決する探究力を身につけることこそ大事」と風向きが変わってきたのは、ここ数年のこと。

◆少しずつ、できることから

本校でも、少しずつ生徒の声をききながら、これまでの「あたりまえ」を見直しはじめました。「だれも置き去りにしない」というには、見直さないといけないことがまだまだ山ほどありますが、制服を選ぶときにスカートかスラックスにするかを選択できるようになったり、男女混合名簿になったり、男子は『くん』、女子は『さん』と呼称を分けることをやめたり、男女共に着用しやすい水着を考え始めたり…。最近では、車いすでも利用できる「みんなのトイレ」とは別に、「オールジェンダートイレ」を設置しました。個室がひとつだけのトイレで、使用中はライトがつくようになっています。ジェンダーだけでなく、誰かがいるとトイレに行きづらく、あえて時間をずらしてトイレに行っていた生徒たちにとっても安心できるトイレでもあります。

個室ひとつのオールジェンダートイレ

また、これまで教室の前の掲示板に、たくさんの掲示物を貼っていたのですが、視界に余計なものが入ると集中しにくい生徒たちがいることをふまえて、前の掲示板には掲示物を貼らないようにしたり、授業中は掲示物が隠れるように白いカーテンを設置したりしました。どれもこれも、すでに取り組んでいた学校からすれば、「今さら?」「遅れているよ」と思われることかもしれませんが、今からでも、少しずつ、できることから始めることにしました。

授業中は掲示物を隠すことに

◆「ノートじゃないとダメですか?」

昨年、1年生の最初の文法の授業で、授業に必要なものに「ノート」を挙げたわたしに、「ノートじゃないとダメですか?」と質問がありました。自分では当たり前をだいぶ断捨離できていると思っていたのですが、「ノートは必要でしょ」と即答してしまった自分を、後で猛反省することになりました。なぜなら、次の授業でその質問をした生徒は、その日の学びをchromebookを使用して、とてもわかりやすくドキュメントにまとめていたからです。

わたしが小中高生の頃は、そもそも授業でchromebookを使うという選択肢すらありませんでしたし、今でもわたしは、気に入った方眼ノートを何冊も買い置きするほどのノート派です。でもそれはわたしの当たり前にすぎません。書くことよりもchromebookを使ったほうが学びやすいのであれば、それがその生徒にとっての「正解」。きれいなノートをつくることが学習の最上位目標ではありません。

苫野一徳著「勉強するのは何のため?
僕らの『答え』のつくり方」日本評論社

◆目先の点数よりも、自分にあった学び方をみつける

わたしたち大人にできることは、たくさんの選択肢を用意して、生徒たちが自分にあった学びの形を選べるようにすること。もし生徒たちに聞かれたら「わたしは、こうして暗記してたよ」「こんな風に勉強してきたよ」と経験は語ります。ですが、書籍だけでなく、スマホアプリやYoutube、オンライン学習ソフトも含めて、わたしたちが経験しなかった学びのツールがある今、たくさんの選択肢の中から、子どもたち自身が「どれが自分にとって最適な学習法なのか」を試行錯誤することも、大切な学びではないでしょうか。

「中学時代のテストの点数を服に貼り出して歩いている大人を見たことある?だから点数に一喜一憂しなくてもいいよ。でも、自分はどうしたら学びやすいか考えることは大事。学び方を身につけると、大人になっても学び続けることができる。だから、まずはあれこれ試してみて、どうしたら集中できるのか、どんな勉強法が自分にあっているのか、自分にあった学び方を見つける1年間にしよう」、今年度の1年生の最初の授業で生徒たちに伝えた言葉です。

自分の直面した問題をどうすれば解決できるか考え、そのために必要なことを「学ぶ力」。これが学力の本質です。やがて忘れてしまうような知識の量は、学力の一部であっても本質ではないのです。
―――苫野一徳(哲学者・教育学者)

苫野一徳著「勉強するのは何のため?」より


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