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ハチドリのひとしずく#16 「ルールメイキング」で大事にしたいこと

関西創価中学校教員の上原桂です。
みなさんが学生時代、疑問に思った校則にはどんなものがありましたか?

本校でも、少しずつ、生徒たちが中心になって校則の見直しを始めました。

一般的に教員になった人は「既存の学校に適応できた人」たちが多いため、校則にも疑問を感じる人が少ないのかもしれません。ですが、昨今「ブラック校則」なる言葉や「ルールメイキング」といった言葉を耳にすることが多くなり、ルールのあり方について考えるようになりました。

2021年には文部科学省も「学校を取り巻く社会環境や児童生徒の状況は変化するため、校則の内容は、児童生徒の実情、保護者の考え方、地域の状況、社会の常識、時代の進展などを踏まえたものになっているか、絶えず積極的に見直さなければなりません」と「校則の見直し」の後押しをしています。

わたしが「校則」や「ルール」について、大きく意識がかわったきっかけはコロナ禍での全国一斉休校です。

そのとき、「生徒たちが学校にいることは当たり前ではなく、この上なく幸せなことなんだ」と心から感じました。

コロナの感染予防のために、全国一斉休校が発表されたのは2020年2月27日。当時、わたしは高校2年の学年主任をしていました。「卒業にむけて最後の1年、あれもしたい!これもしたい!」と考え始めていた矢先の一斉休校。

休校時間がのびる中、かけがえのない時間が削られていくようにしか感じられず、「この機会に3月卒業ではなく9月卒業に切り替えて、高校3年生としての一年をきちんと送らせて欲しい!」と悔しさやもどかしさ、腹立たしさの中で毎日を過ごしていました。

そんな中、コロナ禍の不自由さをものともせず「あれをしたい」「こんなことをしてみたい」という生徒たち。そんな生徒たちを信じて、「いいと思ったことはどんどんやっていいよ」と任せてみると、オンラインならではの企画を次々に考えて、仲間と繋がっていく逞しさや、与えられた状況の中で価値を創造しようとする生徒たちの姿に圧倒されました。

そして、休校があけて登校が再開した日に強く感じたことが、今のわたしの原点になっています。

「かけがえのない時間が削られる」のがもどかしくて辛すぎて、校舎があったとしても生徒たちが登校できなければそれは学校ではない、とさびしさやむなしさを感じ続けていた中、やっと迎えた登校再開の日。

「おかえり!」と生徒たちを迎えながら、コロナで、散髪もままなっていなかったのかボサボサの髪で登校してくる生徒や、久しぶりに袖を通した制服がシワシワの生徒、なかには休校の間にしていたのかキラキラの爪のままに登校した生徒もいたけれど、「どんな髪型であれ、どんな格好であれ、この子たちが元気に学校に戻ってきてくれる以上の喜びなんてない!」「戻ってきてくれてありがとう!!」と思ってしまいました。

そして「あぁ、子どもたちが学校にいる、というのは当たり前ではなかったんだ」「子どもたちが学校にいるだけで、こんなに幸せなんだ」と気づいてしまいました。

どんな髪型か、どんな格好かなんて関係ない。ここにいてくれるだけでいい!心からそう思って、泣けてきて仕方がありませんでした。今でもこの日のことを思い出すと、泣きそうになります。

この日、「思ってしまった」「気づいてしまった」わたしは、以前のわたしには戻れず、「規則」というものに対する考え方がすっかり変わってしまいました。

もちろんわたしがそう「思ってしまった」「気づいてしまった」からといって、学校という場から「規則」がなくなったわけではありませんし、集団生活の中で、みんなが心地よく安心して過ごすための決め事は必要には違いありません。やっと今、生徒たちが中心になって、校則の見直しが始まったところで、まだまだこれから考えること、対話を重ねないといけないことは山ほどあると思います。

ですが、あの日感じた「この子たちが元気に学校に戻ってきてくれる以上の喜びなんてない!」「ここにいてくれるだけでそれでいい!」という気持ちにウソをつくことなく、

ルールは何のためにあるのか。
誰のためのルールなのか。

を子どもたちと一緒に考えていきたいと思います。

リヒテルズ直子×苫野一徳
「公教育で社会をつくる ほんとうの対話、ほんとうの自由」

大切なのは、ルールづくりにすべての子どもが主体的にかかわり、自分がそのルールを了承したということを自覚できることなのです。

リヒテルズ直子×苫野一徳「公教育で社会をつくる ほんとうの対話、ほんとうの自由」