ハチドリのひとしずく#6_木村泰子著「お母さんを支える言葉」を読んで
こんにちは。
関西創価中学校教頭の上原桂です。
青空に映える新緑がとても気持ちのいい季節になりました。
以前書いた記事(ハチドリのひとしずく#4)で、わたしが変わるきっかけとなった映画『みんなの学校』について触れました。
この映画との出会いは2015年8月。
映画が始まって早々、大空小学校校長の木村泰子先生が全校道徳の時間に「大空小学校はだれがつくりますか?」と生徒たちに問いかけるシーンがあります。生徒たちは口々に「自分!」と答えるのですが、このやりとりを見たとき、わたしは「この学校の秘密を知りたい」と強く思いました。
公立小学校に通う生徒たちが、その学校に通う理由は「その地域に住んでいるから」。その理由だけなのに、自分が学校をつくっていると発言することができるのはどうしてなのだろうか?
入試を経て関西創価中学校を「選んで」来てくれた本校の生徒たちは、果たして同じように自分で自分の学校をつくっていると答えるだろうか?
そして、「この校長先生に会って話を聞いてみたい!」、心からそう思いました。
それから1カ月後、兵庫県で開催された木村泰子先生の講演会へ。
終了後の懇親会で、映画を通して感じたこと、本を読んで感じたことなど、思いの丈をぶつけました。帰り際、「がんばりや!」と言ってくださった一言が、その後どれだけの力になったかわかりません。
その日の出会いから9年。
「すべての子どもの学習権を保障する」「子どもから学ぶ」「教員である前にひとりの大人としてどう振舞うか」…木村泰子先生の言葉に共感するとともに、本気の覚悟をもって行動し続ける「泰子さん」から学んだことは数え切れません。教員としても、ひとりの大人としても、心から尊敬する先輩です。
その木村泰子さんの最新刊「お母さんを支える言葉」の「はじめに」にこんな言葉があります。
「失敗は許されない」「しっかり」「ちゃんと」という言葉や「迷惑をかけない」という言葉は、ある一面からは美徳とされるかもしれません。振り返ると、自分が子どもの頃に繰り返し言われてきた言葉ですし、教員としても生徒たちに伝えてきた言葉です。ですが、生徒たちにとってそれが「しんどさ」や「生きづらさ」につながってしまうのであれば、立ち止まって少し考えたいと思うようになりました。
「失敗は許されない」とは、いったい誰から許されないのでしょうか。
「しっかり」「ちゃんと」は、何のため誰のための言葉なのでしょうか。
もちろん傍若無人な振舞いをよしとする気はありませんが、困ったときに必要な手助けまでも「迷惑をかけるから」とためらってしまっていないでしょうか。
主体的な生徒たちが育ってほしいと考えるのであれば、まずはわたしたち教員が生徒たちと向き合うときに、誰かの視線や、誰かの評価を気にせず、生徒たちの声を聴いて向き合いたいと考えています。
思春期の悩みや葛藤を抱え、反抗期まっさかりの生徒たちを前に、「この状況がずっと続くのではないか」「もっと厳しく教員がレールを敷いた方がいいのではないか」そんな不安や迷いはもちろんあります。また、生徒の可能性を信じ、生徒の成長を待つことの難しさを感じない日はありません。
新任の頃、「若い先生だから頼りない」とか「女の先生だから甘い」と周囲に言われたくなくて、必要以上に生徒たちに厳しく接したり、生徒たちを枠にはめてきてしまったことに大きな反省と後悔があります。
今は、年数を重ねて少し図々しくなったこともありますが、中学と高校を行ったりきたりして(これが中高一貫校の教員の醍醐味といえるかもしれません)、中学のときたくさん心配した生徒が、高校生になって自分らしく花を咲かせている姿を通して、目先のことに一喜一憂せず、可能性を信じて待つ大切さを学びました。大学生や社会人になって、頼もしい姿で母校に帰って来てくれる卒業生の姿を見ていると、「無限の可能性」という言葉は決して気やすめではないと感じます。
ともするとわたしたちは、問い方のマジックにひっかかってしまいがちです。「一斉授業がいいと思いますか?学び合いがいいと思いますか?」「固定担任制がいいと思いますか?チーム担任制がいいと思いますか?」「学校に行きたくないと言ったら、登校を促すほうがいいですか?待った方がいいですか?」こんな風に二項対立で問われると、どちらかが正解だと思ってしまいます。ですが、そもそも正解はこのどちらかなのでしょうか。古今東西の教育観や教育メソッドを数え上げればきりがありませんし、学校の状況も、家庭の状況も、生徒たちの状況も、千差万別です。
問い方のマジックに惑わされることなく、二項対立を超越し、どんなときも「生徒の幸福」を最上位目標に掲げながら、「今、何が大切か」を自身に問い続けていきたいと思います。